ジュエリーの歴史を紡ぐ「ブルガリ」
September 14, 2015
「アート オブ ブルガリ 130年にわたるイタリアの美の至宝」展 東京国立博物館 表慶館 2015年9月8日~11月29日
ブルガリの創業131年を記念して開催された本展は、ブルガリの歴史を知ることができる展覧会、ローマ本店の歴史資料室から約250ピースのジュエリーが展示されました。
まず展覧会場に入ると、いつもの表慶館とは違う、まるでブルガリのショップのような雰囲気の中、正面にエピルスの民族衣装に銀細工のアクセサリーを装ったトルソーが展示されていました。ブルガリの発祥は、ギリシャの銀細工師ソティリオ・ブルガリが1884年にローマのシスティーナ通りに開店した一軒の装飾店から始まります。ブルガリの歴史をたどる展覧会の最初の作品は、ルーツであるソティリオ・ブルガリの銀細工と同時代の衣装でした。(写真1)
この展覧会の見どころは、なんといっても美しいジュエリーの鑑賞ですが、ジュエリーは人が身に着けて本来の美しさが現れる・・・と考える人も多いでしょう。本展では展示ケースに並べられたジュエリーだけでなく、ブルガリをまとった女優達のポートレートや映画も鑑賞することができます。女優達の姿は、アートとしてのブルガリに負けず、自信に溢れ光り輝いています。
写真1「エピルスの民族衣装」1880年 「ネックレスなど装飾品」 シルバー1880年 ソティリオ・ブルガリ)
写真2「トレンブラン」ブローチ プラチナ、サファイヤ、ダイヤモンド 1960年 エリザベス・テイラー コレクション
その中でも、エリザベス・テイラーは圧倒的な存在感を放っています。実は、エリザベス・テイラーはブルガリのコレクターとしても有名で、本展では、映画「クレオパトラ」で着用した衣装とジュエリー、俳優リチャード・バートンから贈られたジュエリーの数々が展示されています。(写真2)
ジュエリーは、先史時代からの古い歴史を持つ装飾芸術の一つです。本展は長い歴史の中からみれば現代史かもしれませんが、ブルガリは19世紀以降のジュエリーの歴史を紡ぎ続けるブランドであると感じた展覧会でした。
人を描いた「風景画」?
September 13, 2015
「ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生」展 Bunkamra ザ・ミュージアム 2015年9月9日~12月7日
この展覧会は、風景画がどのように誕生したのかを知ることができる展覧会です。展示は、第1章「風景画の誕生」と2章「風景画の展開」に分かれています。
第1章は、宗教画などの物語に描きこまれた風景からはじまります。ここに描かれた風景は、実は画家の想像で、実際の自然を描いたものではありません。聖母マリアとその腕に抱かれるイエスの背景には、宗教画らしく神聖な自然が細密に描かれています。
この章では、広大で雄大な自然を描いた小さな作品にも注目です。チラシの作品パティニールの≪聖カタリナの車輪の奇跡≫やヒエロニムスの作品によく似た≪楽園図≫は想像以上に小さな作品で、とても驚きました。(写真1)
風景画展といっても、実は人物が描きこまれた作品がほとんどです。これは、いかに絵画がずっと人物を描くことを大切にしたかを物語っています。風俗画にもつながるバッサーノの≪月暦画カレンダー連作≫は、ウィーン美術館でもなかなか展示されない作品です。ヴェネト地方のモンテ・グラッパ山の麓での農民たちの生活を、月別に描いた絵画がずらりと並びます。(写真2)
写真1 ヨアヒム・パティニール「聖カタリナの車輪の奇跡」1515年頃
写真2 レアンドロ・バッサーノ「月暦画連作」1580-85年頃
第2章は、画家の幻想ではなく実際の風景を描いた17世紀から18世紀の風景画です。私たちがイメージする「風景画」は2章にありました。ローマ、ヴェネツィア、パリ、ドルドレヒトなど、人物を描きこまず風景や都市を主役に描いた風景画は、それまでの神の視線による世界の表現ではなく、人間の目で見た自然を捉えた作品なのです。
本展の風景画は、19世紀の風景画を代表するターナー、コロー、あるいはモネなどの印象派の画家たちに繋がっていきます。純粋に風景だけを描くことが、美術史において大きな転換点であることを改めて知ることができた展覧会でした。
油彩・キャンヴァス 76.1×102.3cm 国立トレチャコフ美術館
美しい女性がこちらを真っすぐ見ています。馬車に乗っているため、上から私たちを見下ろすような視線です。黒いドレスと黒い帽子は、当時の最先端のスタイルでしょう。背景は靄(もや)のかかったようにぼんやりしています。白っぽい街の背景と黒い服の女性は強いコントラストをなしていて、彼女の意志や自己主張を表しているようです。
美術館では、この作品の向かって右にイワン・クズミーチ・マカーロフの≪アレクサンドラ・チェリーシュワ、旧姓ヴェリーギナの肖像≫が展示されています。この作品に描かれた五等官フョードル・チェリーシェフの妻は、教養ある女性で社交界でも有名でした。彼女は斜め右を見ていて、控えめな微笑みを讃えた麗しい女性として描かれています。
二つの作品に描かれた視線やポーズを比較すると、人の個性を表すのにしぐさが大切であることが分かります。そして、ファッションを比べてみることで、より二人の違いを知ることができます。
チェリーシェフの妻は、襞が寄せられ軽やかな白っぽい色のドレスを着ています。これはサロンで着用するもので、襟ぐりは大きく開けられ、美しいデコルテ(首元から鎖骨、そして胸元までの部分)が見せられ、画面の中央を占めています。アクセサリーなどの装飾品は少なく、髪に愛らしい水色の忘れな草を挿し、ディアドロップ(滴形)の真珠のイヤリングを付けています。ネックレスは付けていません。
一方、≪忘れえぬ女≫の女性は黒いドレスを着ています。首はすっかり隠されていて、髪も帽子で見えません。帽子には駝鳥の羽、衣服にも豪華な毛皮がデザインに取り入れられています。黒は彼女の強い意志を表現しています。良く観ると、ビロードの黒、毛皮の黒、サテンリボンの黒といった、様々な黒が描き分けられていて、画家の卓越した技術を味わうこともできます。
女性が肌を見せない衣服を着ているというのは、男性にこびない自立した態度を示すとも言われています。印象派の女性画家メアリー・カサット(1844₋1926)の描いた≪オペラ座の黒衣の女≫(1879年)と言う作品を思い出します。
この女性は誰なのでしょう。この作品が発表されたとき、多くの人が疑問を持ち、トルストイの小説の主人公アンナ・カレーニナなどいろいろな説が生まれたそうです。でも現在は「独自の自立した存在」と理解されています。
作者のクラムスコイは、肖像画で著名な人物だったのですが、この作品はモデルを記念碑的に描く肖像画を越えた存在のようです。この展覧会のカタログには、彼女のしぐさは「ふるまいを規定する慣習や厳しい規則に縛られた堅苦しいサンクトベテルブルクに対する挑戦と対立である」と書いています。そして「彼女は上流社会、貴族社会に属していない日陰の世界の婦人である」としています。(本展カタログ84ページ)
社会における女性の解放や新しい女性の登場、女性の権利の再検討など、前述したカサットのように同時代のフランス印象派の画家たちも、多くの作品で新しい時代を描いています。この≪忘れえぬ女≫は1883年の作品で、前年のフランスでは第7回印象派展が画商デュラン=リュエルによって企画され、ルノワールの≪舟遊びの昼食≫などが出品されました。この作品の中にも、同時代の人々が描かれています。
本展では、最先端ファッションやサロン・ドレスに加えて、ウクライナなどの民族衣装や愛らしい農民の衣服なども見ることができます。ファッションの視点でも楽しんでいただきたい展覧会です。
(画像は、内覧会の時に撮影させていただきました)
*「国立トレチャコフ美術館像 ロマンティック・ロシア」展は、Bunkamuraザ・ミュージアムにて1月27日まで開催。 その後、4月27日~6月16日:岡山県立美術館、7月19日~8月25日:山形美術館、9月7日~11月4日:愛媛県美術館にて開催。 |
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ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂
≪聖母子(アルベルティーニの聖母)≫(1560年:ティツィアーノ)を鑑賞し終わってくるりと振り向くと、この大きな作品が目に飛び込んできます。この作品の為だけに用意された部屋は聖堂のように広く、作品のせいかとても荘厳な空間になっています。
画面は、ほぼ中央で上下に分かれていて、下半分では地上での出来事が描かれています。左の大天使ガブリエルは右足を前に出し身を乗り出して、聖母マリアに受胎を告げ、マリアは右手で耳元のヴェールをつまんで引き上げています。これはお告げに耳を傾けているポーズですが、まるでガブリエルを恐れているようにも見えます。手を胸でクロスさせ前のめりに告知する大天使ガブリエルと、本を読んでいて大天使の登場に驚き、身をよじるマリア。二人は平行四辺形の二辺のように平行に右に身体を傾けています。
画面半分から上には、天使と聖霊の鳩が描かれています。鳩の周りは光り輝いていますが、その光は稲妻のように上から下へ走り、画面を左右に引き裂いているように見えます。その光はガブリエルの向って右の羽の光と呼応して、聖霊がマリアに近づくことを予感させます。
画面全体は聖霊を中心に3つのグループに分けられているようです。右上の天使は、ガブリエルと同じ両腕を胸でクロスさせ、舞い降りる聖霊を見下ろしています。彼の視線は下に流れる動きを私たちに感じさせます。一方、左の天使たちは下から上への力を受けて、軽々と浮いているようです。片足を曲げた天使は聖霊に道をあけながら左手を上に上げ、その後ろの天使の持つ布は下からの風を受け、ふんわりと舞っています。天使が布で捕えた上昇する力はその上の横になっている天使の体に沿って右に流れ、そして聖霊に吹きおろし、彼らの周りには風が渦を巻いて吹いているようです。
ガブリエルの視線はマリアを見つめ、マリアの右手は上を向き、マリアの真上の天使の存在に繋がります。その天使の下への視線をたどり聖霊を通じて大きな渦とともに、左上方に上昇する力が働き、私たちの視線はティツィアーノの描いた聖なる嵐に巻き込まれます。
このドラマティックな嵐の中で静かに佇むのは、画面右下の水の入った器です。これは、マリアの純潔を表しています。水は透き通り、ここには静寂があります。
この作品は、ティツィアーノの晩年を代表する傑作のひとつで、リアルト橋近くのサン・サルヴァトール聖堂の右側廊の祭壇の一つを飾っています。当時、貴族や裕福な市民は、聖堂内の祭壇の保有権を寄進によって獲得、一族の墓所とすることがありました。本作も、こうした主題によって祭壇を入手した裕福な商人の注文によるものです。力強く大胆な筆さばきは、ティツィアーノの晩年の特徴です。
また、受胎告知というテーマはヴェネツィアという街にとって特別の意味を持っています。ヴェネツィアは西暦421年、「受胎告知」の祝日である3月25日に建国されたとの伝承があり、そのため聖母信仰が特にさかんで、このテーマが好まれました。
*「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」は国立新美術館にて10月10日(月・祝)まで開催。その後大阪に巡回します。 「大阪展」2016年10月22日㈯ー2017年1月15日㈰ 国立国際美術館 |
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トワル・ド・ジュイ美術館
白地に赤一色の細線でプリントされた「ジュイの布」です。詳細に描かれているのは、人々と動物、そして木々や家などです。木の周りで楽しそうにダンスをしている人たちがいます。馬車に乗って暴れる馬に手を焼いている人もいます。ゆったりと腰をかけ楽しそうに話している人たちは、ピクニックでしょうか。干し草作りや葡萄の収穫など、労働している人たちもいます。
作品から少し離れて鑑賞してみると、詳細に描かれたモチーフはいくつかのグループに分かれているのが解ります。ぞれらのグループは、それぞれに物語を持っていて独立したものですが、隣り合う物語がバラバラに孤立せず、呼応するようにバランスよく配置されています。
グループを繋いでいるのは描かれたモチーフの動きと画面全体の流れです。ダンスをする人たちのくるくる回る動き、馬は左上に飛び上がり、馬車の上の男性の手綱はその動きと正反対の右方向の力を感じさせます。そして、それぞれのグループに描きこまれた樹木や植物の描く斜めの線によって、私たちの視線は布の中を斜めに進みながら情景を楽しみます。ユエのデザインによるジュイの布の魅力のひとつは、繊細な線で描かれた物語とそれらを繋ぐ優雅な曲線の効果です。
この作品は≪四季の喜び≫というタイトルです。1787年、ルイ16世から「王立」の称号が与えられた4年後に制作された作品で、田園での伝統的な営みによる四季が表現されています。「春」はサンザシ(5月の木)の周りで踊る人たちで、「夏」は干し草作りとピクニック、「秋」は葡萄の収穫、「冬」は雪の中のそり遊びやスケートを楽しむ人たちで表されています。
1760年、フランスのヴェルサイユ近郊の村ジュイ=アン=ジョサスに、ドイツ出身のプリント技師クリストフ=フィリップ・オーベルカンプ(1738‐1815)によって工場は設立されました。フランスで73年間も続いていた禁止令(綿更紗の輸入・製造・着用の禁止)が解かれた翌年です。10年間は、インド更紗の技術だった木版による多色プリントを製造していましたが、1770年から本格的に銅板プリントが製造されました。銅版プリントは、その金属版を制作する難しさ、工程の多さから1色刷が基本でした。けれども、木版では出来なかった繊細な線描が可能となり、エキゾチックなインド更紗風デザインや植物図版ではなく、田園風景や神話や歴史画、風俗などがテーマとして表現できるようになったのです。この田園モチーフは15から17世紀のタペストリーに描かれていて、ヨーロッパでは古くから取り上げられ、18世紀にはフランスの王立ゴブラン工場が盛んに制作、フランスならではの優雅な田園風景が織り上げられていました。古くからヨーロッパで好まれたテーマだったのです。
その田園風景をジュイの布にも展開したデザインを手がけ、ジュイの工場を繁栄に導いたのがジャン=バティスト・ユエ(1745‐1811)です。この作品の隣には、ユエの描いた原画が展示されています。ユエは、ロココの巨匠フランソワ・ブーシェの影響を受けた画家で、動物画を得意としていました。彼の描いた原画とジュイの布を同時に鑑賞することで、画家の作品がどのように線描で表現されているか比較してみてください。
ユエが亡くなったのはフランス革命後のナポレオン帝政が低迷し、崩壊しつつある時代でした。人気のあったジュイの布も替わり始めます。それまでも真っ白な綿素材を手に入れることは大変困難なことでしたが、大きな銅版を使用することも難しくなり、モチーフのグループは小さく、布の中で何度も繰り返されるようになります。当時人気のあった古典・古代的なモチーフを用いたジュイの布は、背景が白い無地ではなく、幾何柄が背景にプリントされています。繰り返しが多くなり凡庸になりがちなデザインを改善する方法として考案されたそうです。ユエを失った後のジュイの布は、ユエの描いた牧歌的な理想郷での物語絵とは異なり、荘厳なテーマで構築的な印象です。
本展覧会は、東インド会社から輸入されたエキゾチックな木版プリントからフランス的な植物柄の木版プリントへ、そしてユエのデザインによる銅板プリントの優雅な風景とその後のプリント素材まで、流れに沿って鑑賞することが出来ます。未だ人気のあるジュイの布、トワル・ド・ジュイといえばユエのデザインを思い浮かべる人が多いのはなぜなのか、そんなことをユエの時代の前後の作品と比較しながら考えてみるの楽しいでしょう。
(画像が不鮮明で大変申し訳ありません)
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オルセー美術館
大勢の人たちがとても楽しそうにしています。中央のベンチに腰かけている女性とその肩に手をかけている女性は、向いの男性とおしゃべりをしています。右のテーブルに座る男性は興味津々といった目線でその様子をスケッチしているようです。その隣の男性は、すこしぼんやりとした様子でパイプを口にしています。その背後にはうしろ姿の男女がいます。カンカン帽の男性の姿で顔は見えませんがシルクハットの男性と3人で向き合っているようです。この女性をめぐって何かトラブルでしょうか?となりの木にもたれている女性と彼女に言い寄っている男性もいます。少し遠くに視線を向ければ、頬を寄せ合ってダンスをする男女のが数組描かれています。シルクハットの男性は白いドレスの女性にキスをしていますね。左奥の青いドレスの女性は、踊りつかれたのでしょうか。ベンチに腰かけて頭を抱えているようにも見えます。男性が心配そうにしていますね。左手前に目を移せば、金髪の少女と母親のような二人がいます。この二人は他の人々とちょっと違う雰囲気です。この様子を見ながら何を話しているのでしょう。
パリは19世紀の半ばに大改造が行われ、明るく清潔な都市になりました。それまでは、中世の名残の古い建物が密集、狭い路地はぬかるんでいて馬車や人は移動するのも大変で、ごみや汚物の処理も決して衛生的ではなかったようです。そんなパリが、1853年セーヌ県知事のオスマンによって、ヨーロッパの中でいち早く近代都市となったのです。産業革命の影響の下、広々とした環状道路と放射線状の道路の組み合わせで整備された近代的なパリが誕生しました。ルノワール(1841-1919)はこのような新しい時代を迎えたパリの人々を描いたのです。ここに集まるのは富裕層でなく庶民ですが、彼らにもファッションは手に届くものとなっていました。女性は腰の部分が膨らんだバスル・スタイルのドレスで、男性は流行の黒いスーツに礼儀正しいシルクハットか山が丸いメロン帽(ソフト帽)、またはこの頃夏に流行していたカンカン帽(カノチエ)を被っています。
ここは、パリの北、その頃はまだ郊外だったモンマルトルの丘の上にあった大衆酒場兼ダンスホールのムーラン・ド・ラ・ギャレットです。以前粉をひいていた風車小屋(ムーラン)を改造してダンスホールにしました。このダンス場は毎日曜日の午後3時から真夜中まで開かれていて、当時、日曜日には郊外へ出かけることが流行していたのです。午後の柔らかな日差しを、ルノワールは人々の服や顔に明るい色の斑点で描いています。
印象派の特徴は、変化する光を捉え純粋な色を筆跡を残して描くことに加えて、当時の流行を描いていると言う点も挙げられます。印象派以前の画家たちは、サロンに入選して一人前の画家として認められるため、サロン好みの絵画を制作しました。筆跡の無いすべすべな仕上がりの、ギリシャ・ローマの神話や聖書、文学や歴史的な事柄を描くことが主流でした。印象派の画家たちは、こういった古い絵画価値から離れ、パリの都市とともに近代化した絵画を誕生させたのです。
1874年4月15日から5月15日まで「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」が開催されました。これが後に「第1回印象派展」と呼ばれるようになったグループ展です。印象派の画家たちのまとめ役、父のような存在のカミーユ・ピサロ(1830-1903)が移り住んだポントワーズのパン屋組合の規約を手本として作った組織がこの共同出資会社で、年間60フランを支払えば平等な権利を持て、無審査の展覧会に出展できるといった民主的なグループでした。現在、私たちが「印象派」と呼んでいるのは、このグループのことです。彼らの作品はなかなか受け入れられず、美術批評家のルイ・ルロワがクロード・モネ(1840-1926)の≪印象、日の出≫を「印象を描いただけだ」と批判したことが印象派という名称が生まれたきっかけです。本作品≪ムーラン・ド・ラ・ギャレット≫は、1876年の第3回印象派展に出展されました。
作品には、ルノワールの友人たちも登場しています。私たちもこの人々の仲間になって、ダンスをしたりおしゃべりをしたりして、当時のパリジャン、パリジェンヌになってみましょう。
*「オルセー美術館・オランジュリー美術館所蔵 ルノワール展」は国立新美術館にて8月22日㈪まで開催。 |
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フィレンツエ、ウフィツィ美術館
頬を赤く染めて、トロンとした眼差しの中性的な雰囲気の青年が、こちらにワインを差し出しています。もうすでにいい気分になっている彼は、一緒にワインを楽しむ相手を欲しがっているのでしょうか。ワインはこっくりとした深い赤色で、その表面には波形が描かれています。ワインの次には果物を勧めてくるでしょう。そして次は??彼は衣を脱ぎかけて裸になろうとしているようです。このように、カラヴァッジョの初期の作品には、「同性愛的な主題がみられる」と考える研究者もいます。
この作品を描いた頃のカラヴァッジョはローマにいました。当時のローマは、歴代の教皇がカトリックの権威を高めるための建築や絵画を芸術家たちに注文していました。お金を稼ぐため、イタリアだけでなく国外からも多くの建築家や画家、彫刻家が集まって来ていました。カラヴァッジョが1592年にローマに向った理由は解っていません。ミラノで殺人を犯し、ミラノからの逃亡説もありますが、絵画を熱心に勉強し、ローマで仕事を得たいと考えたとしても不思議ではありません。
けれども、ローマではすぐに教会からの仕事の注文はありませんでした。ローマで聖職者の台所の下働きをしながら≪蜥蜴にかまれる少年≫を描いています(この作品も展示されています)。カラヴァッジョを貧民街から救い出し、自分の家に迎え入れたのはデル・モンテ・枢機卿でした。1596年頃の事で、その数年後この作品は制作されました。枢機卿は、裕福で見識のある聖職者で、絵画のコレクターでもあったのです。この頃、中性的な青年を数多く描いていて、枢機卿もカラヴァッジョも男色趣味者であると推測されてきましたが、最近ではその説は有力ではありません。
描かれているバッカスは、ギリシャのディオニソスと同一視された酒と劇と豊穣の神です。神々のトップに君臨するユピテル(ギリシャの神ゼウス)と、人間の女性でフェニキア王の子カドモスの娘セメレの間に生まれた子供です。ユピテルの妻ユノ(ギリシャの神ヘラ)の嫉妬から、セメレはユピテルの稲妻に打たれで焼け死にます。ユピテルはその炎に包まれ死んでいくセメレのお腹の中の胎児を見つけ、救いだして自分の太腿に縫い込んで育て、月が満ちて取り出しました。この子がバッカスです。アポロ(ギリシャの神アポロン)が理性的で精神的な良識ある神に対比して、激情的で衝動的な行儀の悪い神とされることもあります。
熟れきった果物は少し傷んでいるところもあります。バッカスの指先の爪も汚れています。自分の姿を鏡に映しながら描いたとされる絵画ですが、英雄や勝利者のような葡萄の冠と、肉付きのいい半裸の上半身、そして果物や指先のリアルな描写など、古代の神の世界と現実社会をなまめかしく混ぜ合わされています。
画面左にあるガラス瓶の中のワインの表面に、かすかに映るカラヴァッジョの姿が描かれています。皆さんは発見できますでしょうか。
*展覧会は終了しました。 |
柄を切り取って背後から形を浮き上がらせているので、影絵のような幻想的な雰囲気です。この型枠に張られた紙は着物を染めるときの型紙です。型紙とは小紋や浴衣の柄を布に染色するときに使うもので、特に伊勢型紙は室町時代からあり、徳川御三家である紀州藩の保護を受けて発展したそうです。当時、江戸では小紋が流行しました。小紋や縞柄は、寛政の改革(1787~93)以降、質素倹約の下に生まれた「粋」の美意識から広く流行しました。遠くから見れば無地の着物ですが、近づくととても精密な柄が染められているという江戸っ子の「粋」ファッションには、伊勢型紙が重要な役割を果たしていました。
小紋の型紙は、多くは1枚で絵全体が彫られているので、型紙自身も細かな柄の美しいものです。その緻密な柄を彫りあげる技術は、日本の伝統工芸として大変貴重なものです。型紙は、柿渋を引いた和紙を重ねた丈夫な厚紙です。
錐の刃先が半円筒状の道具で型紙を突きぬいて模様をつける「錐彫(きりぼり)」、小型の切り出しのような道具で、手前に引き切って模様をつくり、縞柄などに使う「引彫(ひきぼり)」、細い小刀で、模様の真上から直角に突き刺すように刃を入れて切る「突彫(つきぼり)」、また刃を文様の型につくった道具を用いて一突きに彫りぬいて、小桜(こざくら)や菊花散らしの柄に使う「道具彫」があります。「錐彫」での鮫小紋や青海波などの柄は、約3センチ平方に千近い穴をあけるそうです。
伝統工芸士の兼子は、道具彫りの彫刻師です。この作品には、霰小紋や雨縞のような小さな形が連続している柄の型紙と流水や小桜、小菊、松などを組み合わせた型紙が使われています。流水は水の流れを図案化したもので、弥生時代の銅鐸にもみられ、人生の浮き沈みに例えられることもあります。桜は平安時代に、それまでは花といえば梅であったのに代わって愛されるようになりました。松は常緑ですので、古くから吉祥樹とされていました。菊は香りが良く、奈良時代に薬用として中国から伝わり、中国の故事によると、川の上流に咲く菊の上の露は、長寿延命の妙薬だとされ、菊水文は縁起の良い文様として、鎌倉時代から好まれた柄です。
日本の伝統的な柄の型紙が、現代的な住空間に生かす照明として新しい命を吹き込まれました。
REVALUE NIPPON PROJECT」は、伝統工芸を継承してきた職人の確かな仕事を、新しい表現領域で展開する試みです。時代が変わりテクノロジーが進む中、かつては否定的な言葉であった「手作り」「アナログ」「スロー」は、今新しい可能性を秘めた素晴らしいキーワードとなっているのです。
*展覧会は終了しました。 |
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高層住宅を斜め下から眺めるように捉えています。中庭には下草が生え、荒れているのが解ります。住宅のベランダや窓も朽ち果てていて、人は誰もいません。向って右の建物の影が、正面の建物に影を落としているので、天気はいいのでしょう。
長崎の端島(はしま)は、姿形から「軍艦島」と呼ばれ、石炭産業が盛んな時代は炭坑の島として最盛期には約5,000人の人たちが、南北約480m、東西約160mという狭い土地に住んで暮らしていました。炭坑とその関連施設だけでなく生活施設もあり、狭いので住宅は高層でした。1974年に閉山して、今は廃墟になっています。
まるで、ルネサンスの時代の絵画のように、遠近感を表す直線が左右斜めに走っています。正面の建物はいちばん遠くにあるのが解りますが、作品をよく見ると、遠くも近くも全てにピントがあっています。普通は近くははっきり、遠くはぼやけて見えるはずなので、不思議な感覚になります。軽い眩暈を感じるような「私はどこにいて、どこをみてるのかな?」と思ってしまいます。
写真作品では、中心的なモチーフにピントを合わせたり、瞬間的に撮影してピントが合っていなかったりと、写真の主題や動き、臨場感をピントの有り無しで伝える作品があると思いますが、この作品は、どこを見てもピンとぴったり!!どこも「くっきりはっきり」です。
三好は、デジタル写真の技術と高性能プリンターにより、鮮やかな黒とエッジの効いたドラマティックな軍艦島の建物の作品を制作しました。その、明快な画面は、軍艦島の「廃墟」「虚空」「盛衰」「忘却」といった否定的な部分を伝えるのではなく、つまりその後ろに流れる物語を観る者に想起させるのではく、目の前の存在である建物をストレートに提示しています。「どうぞ、すみずみまで見てください」と言うように、あらゆるところに焦点を当てているので、私たちは主題を押し付けられることなく自由に見て感じることが出来ます。
三好は色鮮やかな「楽園」シリーズで著名な作家です。40年ぶりに制作したモノクロ作品から大きく向上した技術を使い、新たな「楽園」を制作しました。彼は「楽園」とは「癒しを感じさせる理想郷」であり、「軍艦島」は、豊かな暮らしを求めて人々が作り出そうとした理想郷だったのでは。いわば『楽園の跡』だと思う」と語っています。ならば、ここは日本の古代ギリシャ・ローマの遺跡のような場所なのかもしれません。細部まで作品を観察して、楽園であった時代のこと、また朽ちた建物の美しさを感じてみてはいかがでしょう。
*展覧会は終了しました。 |
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カンヴァス、油彩 各180.6×99.8 東京国立博物館
ほぼ等身大の女性の裸婦の全身像が一体づつ描かれた3枚からなる作品です。中央の女性は、まっすぐこちらを向いていて、両手は顔の高さまで上げられています。手のひらで何か大きな球体を顔の前で持っているポーズと表現したらいいでしょうか。真正面を向いた女性の髪は少し高い位置でまとめられていて、視線はまっすぐこちらを見つめています。足はしっかりと揃えられ、体重は両足に等しくかかっています。
向って右の女性像は中央の女性の方に身体を少し向け、左足に体重をかけ右足はリラックスしたように軽く曲げています。右手を額にかざして斜め下を見ていて、髪はゆったりと首の後ろで束ねられています。へその前で輪を作るように左手の親指と人差し指が今にも触れそうです。阿弥陀如来の来迎印を思い出させます。彼女は少し微笑んでいるようにも見えます。
左の女性像はとても悲しそうです。身体はやはり中央の女性の方を向いていますが、顔はうつむいていて、右手で乱れた長い髪をつかみ、その表情を少し見せています。だらりと下げた左手は女性の秘部を隠すような位置にあり、神話のヴィーナスの姿のようにも見えます。軽く開かれた両足に力はありません。
三つの作品はすべて金色の背景に描かれ、それぞれの裸体の影のように部分的に強い金色が配されていて、まばゆい光を放っています。女性たちの身体は柔らかいグラデーションにより描かれ、デッサンを重ね、学んだ黒田の成果がここにあります。
15世紀の末、レオナルド・ダ・ヴィンチは輪郭線を排除し、スフマートというグラデーションで人体などの立体感を表現し、それは長く西洋美術の基本となりました。けれどもこの黒田の作品をよく見ると輪郭線も描かれています。日本画には輪郭線が描かれていることが多く、19世紀のヨーロッパでは浮世絵ブームとともに輪郭線が日本の絵画の特徴の一つと考えられていました。緩やかなブラデーションと、黒ではなく赤茶のなまめかしい線描による輪郭線により、西洋でも東洋でもない新しい裸婦画が描かれています。
最後にひとつ、足元をみてください。背景は奥行のない均一な金色の世界が広がっていますが、3人の足はしっかりと大地を踏みしめています。地面も地平線も描かれてはいませんが、この3人は金色の空間の中にしっかりと立っているのです。そしてこの「足」もこの3人の違いを表現していると感じました。ほんのりと赤みが差した指先の表情はひとりひとり違います。髪形、表情、手や立ち姿の違いだけでなく、足にも注目してみてください。
中央は「感」向かって右は「智」左は「情」です。それら画題となっている三つの意味は出品されたときから疑問とされ、今日でも議論を呼んでいます。皆さんは、どの女性に心を動かされるでしょうか、また彼女たちは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
*展覧会は終了しました。 |
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